ボルドーの右岸、ポムロール地区に位置する「シャトー・ペトリュス(Château Pétrus)」は、ワイン愛好家にとって特別な響きを持つ名前だ。シャトー・ラトゥールやシャトー・マルゴーといった五大シャトーに匹敵、いやそれ以上の評価を受けることもある。AOC制度上はグラン・クリュの格付けを持たないにもかかわらず、その名は世界のワイン界で神話的な地位を築いている。
ポムロールは小さな丘陵地帯に広がる穏やかな地域で、ペトリュスの畑もわずか11.5ヘクタールほど。大手シャトーの広大なブドウ畑とは対照的に、極めて限られた生産量がこのワインの希少性をさらに高めている。
ペトリュスの最大の特徴は、畑を覆う特異な青い粘土質土壌にある。この粘土は鉄分を多く含み、保水性に優れているため、ブドウ樹は乾燥期にもストレスを受けずにゆっくりと成熟する。結果として、果実味が凝縮し、シルクのように滑らかで奥行きのあるワインが生まれる。
栽培されるブドウの約95%はメルロー、残りはわずかなカベルネ・フラン。このメルローが、ペトリュス独自の官能的な香りと濃密な質感をもたらしている。ペトリュスのメルローは単なるブドウではなく、「液体の詩」と呼ばれるほどの存在感を放つ。
シャトー・ペトリュスの名声を世界に知らしめたのは、20世紀中盤に経営を担ったマダム・ルバと醸造家ジャン=ピエール・ムエックスの存在だ。彼らは徹底した品質主義を掲げ、収穫から醸造、熟成のすべてに妥協を許さなかった。
ブドウは完熟した房だけを厳選して手摘みで収穫し、樽熟成にはフレンチオークの新樽を惜しみなく使用する。その後、数年にわたる熟成を経てようやくリリースされる。1本1本が芸術作品のように仕上げられるため、生産量は年間わずか数千ケース。これが「幻のワイン」と呼ばれる所以だ。
若いペトリュスは濃密な果実味と力強いタンニンを持ち、ブラックチェリーやプラム、スパイス、トリュフの香りが幾重にも重なる。熟成を重ねると、香りはより深みを増し、カカオや森の土、ヴィオレットのニュアンスが現れる。
その味わいはまさに「静謐な力」。濃厚でありながら、どこまでもエレガントで、飲む者を圧倒的な静けさと感動に包み込む。
シャトー・ペトリュスはその希少性から、オークション市場でも常に高値を維持している。とりわけ優良ヴィンテージ――1947年、1961年、1982年、1990年、2000年、2010年など――は1本数百万円を超えることも珍しくない。
単なる高級ワインではなく、芸術品や文化財に近い存在として世界のコレクターに愛されているのだ。
また、国家元首やセレブリティたちの晩餐会にも頻繁に登場し、かつてジョン・F・ケネディが愛飲していたことでも知られる。ボトルを開けること自体が、一種の儀式のように感じられるのもペトリュスならではだ。
ペトリュスは「豪華さ」や「高価さ」だけで評価されるワインではない。その背景には、土地・人・歴史の三位一体で紡がれた哲学が息づいている。自然への畏敬、完璧を追求する情熱、そして時を味方につける忍耐――それらが一本のボトルに凝縮されている。
ペトリュスを味わうことは、ただワインを飲む行為ではなく、時間と自然と人間の芸術を体験することに等しい。
それこそが、世界中のワインラヴァーがこのワインに永遠の憧れを抱く理由である。